先日ある本屋さんに立ち寄ったところ、店頭にPHPという月刊雑誌が目にとまりました。「孤独――このさびしさと不安」というタイトルがついていました。PHPとは、ピース・アンド・ハッピネス・スルー・プロスペリティーの頭文字で、「繁栄を通して平和と幸福を」との意味だそうです。その雑誌が、人間の言い知れない孤独をあつかっているのは、おもしろいと思いました。
私は人間の本当の平和と幸福がたんなる物質的な繁栄によってもたらされるものではないと思います。なぜなら、どんなに物質的に豊かになっても、また、この世がどんなに表面上平和であっても、人の心には、それによってもまだ満足できないものがあるからです。人は心の深いところでいつも不安と孤独を感じているからなのです。
その雑誌では人間の孤独を次のように詩で表現していました。
「 たくさんの人に囲まれているのに いつもひとりぼっちひとり歩きしているのに、 なぜか足もとが不安、 このさびしさはいったい何だろう 孤独がわたしにつきまとう 」
どうして人はこのような孤独と不安を感ずるのでしょうか。
それは第一に、自分が人に理解されない淋しさと不安からきます。または、その人をある程度まで理解することができても、その人の深い心の先までは決して理解してあげられないものです。その人だけがじっと耐え、一人で悩み続けなければならない心の問題があるものです。
また、第二に、その孤独は、本当に人から愛されない、また、人を本当に愛せないという、愛のない世界から生まれてくるのではないでしょうか。だれでも人を心から愛し通すには、あまりにもエゴイズムが強すぎます。愛を口ずさんでも、結局、自分の利益になるようにと計算づくめのエゴイズムなのです。聖書は、本当の愛とは、条件つけずに、友のために自分の命を捨てきることだと教えています。ところがこれがなかなかできません。したがって、人はほんとうの愛が得られず、孤独なのです。
第三に、孤独は、生きる意味が分からないところからきています。今は牧師になっておられる井手定治先生は、太平洋戦争中海軍パイロットをしていました。ある日、教室で教官から何かの学びをしていたとき、その教官がいきなり書いていたチョークを窓の外に投げ捨てて、「おい、やめようか、どうせ死ぬんだから、勉強してもむだだなあ」と吐きすてるように学生に言いました。先生は、この教官の言葉が心にグサリとつき刺さり、「死の宣告を受けている者には、望みどころかなにをやってもむなしいのだなあ」とつくづく感じられたそうです。生きる意味が分からないということは、人が「死の宣告」を受けている者だからではないでしょうか。
いったいどこへ行けば、どうすれば、この不可解な孤独から人は解放されるのでしょうか。私自身の経験から申し上げましょう。それは、あなたの生きる悩みをだれよりも理解し、命を捨てて下さったほどに無条件にあなたを愛し、あなたに永遠のいのちを与えようとされておられる、主イエス・キリストに出会うことです。そして、この救い主イエス・キリストを通してあなたの創造者なる神様に立ち返って行かれることです。なぜなら、あなたの孤独のほんとうの原因は、あなたがこの愛なる神様と分離して生きていることにあるのですから。
どうぞ、ありのままで、神様の愛の中に信じて飛び込んで行って下さい。その時あなたは本当の心の平安と満足を体験できるのです。イエス・キリストは次のように約束して下さいました。
「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(ヨハネによる福音書一四章一八節)
(希望の灯Ⅱ・狭い門より入れ(天利信司著)より)
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