諸刃の剣 ~世の終わりの時~ (2025年7月13日霊想より)
- abikoch
- 8月23日
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神のことばは生きていて、力があります。それは鋭い刃のように切れ味がよく、心の奥深くに潜んでいる思いや欲望にまでメスを入れ、私たちの赤裸々な姿をさらけ出します。神は、人がどこにいようと、すべての人の心を見抜かれるお方です。神に造られたもので、神の目から隠れおおせるものは一つもありません。今も生きて、すべてを見抜かれる神の前に、私たちは裸のまま、さらけ出されているのです。私たちはこの方に対して、自分のなしたすべてのことを弁明しなければなりません。
(ヘブル4:12,13 リビングバイブル訳)
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣のよりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄、を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。
(ヘブル4:12,13 新改訳2017)
※諸刃の剣と両刃の剣
どちらも両側に刃がついた剣のように、一方では非常に役に立つが、他方では大きな害を与える危険もあるもののたとえとして使われます。どちらの言葉も、ある行為や状況が、利益をもたらす一方で、同時に大きなリスクや危険を伴う場合に使われます。刀身の両側に刃のついた剣は、相手を切るために振り上げると、自分自身も傷つける危険性があることに由来しています。
私たち一人一人の心、社会、家庭、また世界の諸問題、人種、性、経済、災害、天変地異、保守と革新、それは果てしない謎と不明瞭や不確定さなど、問題は絡まって、人間には到底、解(ほど)くことができないように思います。アメリカの政治と経済、ガザとイスラエルとイラン、ロシアとウクライナと北朝鮮。各国の指導者の思惑と経済とが絡み合って、戦争の終わりが見えません。
自分自身の心や感情を見つめても、見つめることを諦めたくなるほど、奇怪極まります。犯した罪を抗えない弱さと言い張る自己正当化、事情と言い訳を織り交ぜる言葉の巧みさ、本音と建前を使い分ける処世術、謙遜なフリをした計算高い笑顔と嫉妬、現実の前に今と将来のために妥協する信仰、平日の社会の顔と日曜の教会の顔。罪赦されたクリスチャンであるのに、人の罪を赦さない愚かな罪びと。このようなダブルスタンダードの中でクリスチャンの人生が疲れ果ててしまうのは至極当然なことです。
しかし、神の言葉である聖書は、それらの社会問題と心の問題を整理し、分離し、切り分けることができると言うのです。しかも2分法なのです。人間の望む解決方法は、双方の事情や痛みを聞いて、妥協点や優劣を認めて平和的な結論を導き出そうとしますが、神の問題解決方法は、人の思いに寄り添うことも時にはなさいますが、それ以上に、全く正しいさばきをくだすことで解決するということに尽きます。それは大概私たちの想像をはるかに超えた、驚くべき結末であります。
神の言葉は諸刃の剣だと説明されています。すなわち、神の言葉は、私たちの混乱が是正され、善悪の判断ができるようになり、何が愛で何が罪なのかが分かるようになります。しかも、理解できただけでなく、御言葉には力があって、分離作業が行われ、そして当然として痛みが伴うのです。赤ちゃんの出産は、母と子の分離が行われます。それは後の大いなる祝福と喜びの為に、通過せねばならない大いなる痛みが伴います。死ぬほどの苦痛です。(産みの苦しみ)
そして、私たちは人には隠し通せる心の感情や思いがあると思っていますが、神にはすべてお見通しだと言うのです。自分自身のこれまでの思い、行動に対して、神は私たちの言動・動機を問うのです。それに対して、私たちは黙るか、開き直るか、それとも、この期に及んで事情や御託を並べて言い訳を言うのでしょうか。
ヨハネ黙示録1:16「また右手には七つの星を持ち、口から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった」 これは再臨のイエスがこの地上をさばくときの姿です。注目すべきことは、その両刃の刃が、手ではなく口から出ていたと、ヨハネは目撃しています。イエスはその口から出る正義の言葉、神の預言をもって、正しく地上とあなたをさばかれます。このイエスの姿を見たヨハネは、恐れおののいて、足元に倒れたとあります。
私たちは愛深い、麗しいイエスを想像し、そのイエスに会いたいのですが、再臨のイエスは、厳しい姿をしておられます。
黙示録1章17節、18節「わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。」
だから、初臨のキリストを知って、信じ、受け入れ、悔い改めなければ、どうやって、再臨のキリストに向き合い、待ち望むことができるでしょうか。
そうです、キリストの十字架(=神の言葉)は神の愛(=救い)の側面と神の裁き(=滅び)の側面がある両刃の剣なのです。
キリストの再臨にあなたは耐えうることができるでしょうか。
「自分たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。自分たちの心を、両手とともに、天におられる神に向けてあげよう。」哀歌3:40,41
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